清一は先の大戦中、中国の青島(チンタオ)に渡っており、そこで青島水産会社社員として働いていた。この当時、満州を始めとして、大陸に雄飛し名を上げる野望を持った青年が多くいたが、豪放磊落を絵に描いたような清一もそんな一人だった。
その後、清一は長年の夢であった青少年教育を興したい衝動に駆られ、青島にて昼は幼稚園と小学校、夜は日本語学校を経営するに到った。学校名は興亜学院といい、“亜細亜を興す”つまり「日本人・中国人という枠に囚われることなく、アジアに生きる者として健全な心身を持った人間を育成する」ことを祈願して創られた。そこでは、日本人と中国人に分け隔てなく接して熱心な教育が施された。清一と志を同じくする同胞や現地の中国人の協カを得て、学校は隆盛を極めた。しかし、戦局は日ごとに悪化し、よき時代は長くも続かずに終戦を迎えることになる。
戦後、志半ばで人吉に引き揚げて来た清一夫婦は、人吉市五日町にて善隣商会という商社を興した。ちなみに“善隣”という名には、戦前日華友好に青春を燃やした清一の「日中の善隣関係を願う気持ち」が込められていた。ちなみに住宅地図で名高い(株)ゼンリンも、創業者が中国からの引揚者であり同じような思いを込めて社名としたようである。
中国からの引き揚げ当初は、清一の考えとして東京に専門学校を創る予定であった。しかし、無一文の清一にとって東京での学校用地確保は困難であり、断腸の思いで断念したのだった。戦後復興を期し人吉にて善隣商会を興すも、中国での青年時代に思い描いた学校建設の夢が清一の脳裏からいつも離れなかった。
そんな中、日本は「もはや戦後ではない。」と言われるまでに経済復興を成し遂げ、昭和39年に東京オリンピックが開催されることが決まった。終戦直後の食べるものに事欠く状況から、日本は物質的繁栄の道を歩きつつあった。
と言っても、この時代は女性の社会進出は十分でなく、保育に欠ける児童を預かる保育園に対する社会的評価は未だ低いものだった。清一はこのとき、将来の日本では必ず女性の社会進出が進み、子供を預かる児童福祉施設すなわち保育園が不可欠な時代が来ると確信した。
そこで清一は、保育園開設に向けてすぐに行動に出た。だが、財産的裏づけのない清一にとって認可保育園開設の道は困難を極めた。毎月のように熊本市内の県庁まで通い認可保育園の開設に向けて交渉したが、なかなか上手くいかずに清一の熱い思いも折れかけていた。
しかし、清一の思いに時代が味方した。「ポストの数ほど保育所を!」という全国的な運動の広がりがあったのだ。女性の社会進出の時代がもう目の前まで来ていたのである。また、清一にとって幸運なことに、人吉市出身で旧厚生省児童家庭局長の竹下精紀氏のお力添えも頂いた。そして遂に、昭和39年4月1日、旧厚生省並びに県の認可を得て社会福祉法人善隣福祉会善隣保育園が誕生したのである。このとき、敷地はわずか100坪で、60名定員でスタートを切った。
経済的には苦しい状態の出発で、ろくに遊具もなく施設面での貧しさはあったが、人情や心のふれあいには豊かなものがあったようである。
昭和10年代、青島水産時代の故岡田清一。閉鎖的な日本とは違った大陸の大らかな環境の中で、清一の志は育まれていった。
昭和10年代、青島での日本人の友と。皆それぞれが大陸での成功を誓いあった。左から2人目が清一。4人とも目が輝いている。
昭和10年代、清一が経営していた興亜学院での講義風景。教壇の右端が清一。ここでは、現地の中国人への日本語教育が行われていた。
昭和10年代、青島市内を行き交う小学生たち。善隣保育園の原点はここから始まった。
生前、馬をこよなく愛した清一。馬の力強く突き進む姿に自分を重ねた。
昭和39年秋に、回転地球儀が納入された。園としては初めての大型遊具購入で、瞬く間に園児達に大人気となり、写真のように鈴なりに乗って、ぐるぐると廻っていた。