熊本県人吉市 社会福祉法人 善隣福祉会 善隣保育園

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裸マラソンとともに

善隣保育園は昭和39年4月1目、熊本県人吉市瓦屋町に開設された。時代は戦後復興を経て、東京オリンピックを目前に控えた高度経済成長の真っ只中であった。この頃はまだ、保育所をはじめとする社会福祉の整備は、欧米先進国に比べて格段に遅れをとっており、福祉の概念そのものが国民にも十分に理解されていなかった時代である。
そんな中、善隣保育園初代園長である故岡田清一〔大正2年(1913)~昭和61年(1986)〕は長年の志であった学校設立に漕ぎ着ける。

できたばかりの保育園の周囲は田んぼだらけであり、廃材で作った初代園舎のみが遠くから確認できたようである。まさに裸一貫から清一が設立した善隣保育園は、園長以下保母3名・調理師1名の本当に小ぢんまりとした園であった。遊具といっても室内に取り付けられた鉄棒のみであった。しかし、周りの自然すべてが子ども達にとっての大切な遊具であり、春は周りの田園でレンゲの花を摘んだり、セリやノビルを摘んで給食のおかずの中に入れてもらったりしたこともあったなど大らかな時代だったようである。

また、この頃は現在の正門に面した県道17号を時折トラックや商業用の自動車が通るくらいであり、園舎の横を自動車が通ることがほとんど無かった。そのため、『園児1人で登降園ができる!』ということも大きな保育目標の一つであった。夕方4時になるとそれぞれ連れ立って帰路につき、年少の子ども達も小学生のお兄ちゃんやお姉ちゃんが迎えに来ていたそうで、ご両親が迎えに来られるところは数えるほどだったという。

その後、昭和40年には働く母親の増加に伴い入園希望者も急増し、早くも30名の定員増で総定員90名となった。清一の時代を読む目は確かだったようだ。周囲が田んぼということもあり、以降長年に渡って進められる園庭・園舎の拡張を予期したかのような立地選択の先見性は慧眼だったと言うべきだろう。

また、草創期の貧弱な物的環境の中で、清一を応援する多くの方々からの金銭や資材或いは労力の提供等のご支援があり、善隣保育園は希望に燃えての船出ができたのである。

開園当初、清一はすでに50歳を過ぎていたが、旺盛な事業意欲は衰えることはなく昭和43年には旧専売公社倉庫を譲り受け、当時珍しい体育館が建てられ、様々な保育園の行事に使われてきた。また、少林寺拳法人吉道院や少年剣道龍泉館の道場として開放するなど、地域の健全な青少年育成の施設であった。

昭和44年には、益々増える入園希望者に対処するため新たに【善隣幼児園】が隣接地に建てられた。その後17年間、同じ名前の兄弟園としてよきライバル関係が続くことになる。多いときには保育園と幼児園を合わせて二百数十名の園児がおり、様々な行事が賑やかに行われていた。

そして、現在毎朝の日課となっている『裸マラソン』が採り入れられたのもこの頃だ。現在では、善隣といえば「裸マラソン」と言われる程、すっかり善隣の代名詞となっているが、善隣の保育方針をまさに体現したのが『裸マラソン』なのである。これを考案したのは、もちろん清一であった。


昭和43年度善隣保育園運動会模様その1。右上のバスは産交バスより譲り受けたもので、当時の善隣保育園のシンボルであった。

昭和43年度善隣保育園運動会模様その2。親子リレーと思われるが、スーツ姿で走られる保護者が印象的。

昭和44年10月ごろ撮影。左手の川が山田川であり、右手の空き地が、現在の体育館が建っているあたりである。煙突の左にある大きな大木が、本園の園歌にも歌ってある榎(エノキ)である。本園設立の頃から園児を見守ってきたが、残念なことに現在は老衰のため株を残すのみである。

昭和44年度第1回善隣幼児園運動会。保育園の姉妹園として開設した幼児園は無認可施設ではあったが、保護者の皆様の熱心なサポートにより各行事で保育園以上の活気を見せた。